能登町民話集/阿武松緑之助

2008-03-01 PM 3:34 by office

 能登町民話集(能都町編)平成14年度発行版に掲載されている民話もいよいよ最後となりました。まだまだ地域にはいろいろと言い伝え等がありますが、機会を見つけ調べて皆さんにお知らせしたいと思います。

 今から二百十年程前、鵜川村の七見に長吉という大変相撲が強い若者がいた。どこの相撲に行っても、長吉におよぶ者は一人もいませんでした。
 家が貧しかったので、馬曳きとして奉公に出されました。馬曳きの仕事は、長吉をますますたくましく、力強い若者にしていきました。どうしても力士になりたいと、文化十二年、年齢二十五歳にして江戸に出て、武隈文右衛門(たけくまぶんうえもん)に入門しました。四股名を「小車」と名乗りました。

 しかし、田舎者でのんびりした長吉は、厳しい相撲の習慣になじめず、到底出世は望めないと、親方は「銀一歩」を与えて帰国するように言いました。夢破れ失意のどん底に落ちた長吉は、「村人に合わせる顔がない。母は悲しむに違いない。」と途方にくれていましたが、雄大な富士山の姿を見て、ハッとしました。
 「俺も富士山みたいに、誰に見られてもはずかしくない立派な相撲取りにならないと、村へ帰れん。」と決意をあらたにしました。
 江戸に戻った長吉は、今度は錣山に弟子入りし、四股名も心機一転「小緑」に改め、黙々と稽古に励みました。やがて大器の片鱗をみせるようになり、一八一五年(文化十二年)十一月場所初めて番付の東序の口十四枚目で出場して、六勝0敗好スタートを切りました。

 一八二二年(文政五年)、前の師匠で浅草蔵前八幡の花相撲で、話題を呼んでいた武隈関に勝ち、この年の十月場所に幕の内進み翌七年正月場所から長州毛利藩に五十俵で召し抱えられ、八勝一敗の好成績で初優勝の栄光に輝きました。
 この結果、東小結に昇進し、八年の十月場所に関脇、九年の十月場所に大関となり、翌十年長州毛利斉広候の藩主の命によって長州の萩の東北にある名勝〈阿武松〉にちなんで『阿武松緑之助』と改名しました。一八二五年(文政十一年)阿武松は、大関三場所にして吉田司家から横綱免許が与えられ、天下晴れて能登で初めての横綱になりました。彼は文字通りの大器晩成型で、ときに三十八歳であった。

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