鵜川の天満宮の由来聞書

2008-02-22 AM 10:03 by office

 十月七日の御祭礼の名組も、天文(1532~1554)三年の記録を見ますと、黒神子、脇、江の口、菅沢、江ノ脇、坂尾、赤、横山、宮田、宇賀、榎木、羽田の十二名にして、今でも年々八講となづけ、四尺四方の鏡餅ならびにいろいろな木の実、海草などを供え祭礼をおこないますが、伝兵衛は昔からの礼式に従って、七度半の使いをもって列席の願いを受けて拝殿の正座につきます。谷屋の藤兵衛尉は、右の八講祭の十二名の講当の二月を読むことも昔のままです。

 また、三月二十一日は、桜木の社から今の境内に移った、めでたい例によって、祭礼をとりおこなっています。三月と十月の両度のお祭りには神輿が桜木の古社へ行かれます。
 享禄の頃から寛政までは、浜辺から寄地に行きそれから桜木に行かれましたが、今は新しい道から行かれるようになりました。両度の祭礼には、神輿を中央に安置して、組合の神主方も列座して祭礼をとりおこなっていました。

 十一月七日の祭礼を「いどり祭(えどりの転じたものか)」といい、神に供える大鏡餅の形、色、はだ合いなどを批判し、なるべく立派につきあげたものを神前に供えるという氏子の心のあらわれでしょうか。批判の時間は延々二時間ばかりになることがあります。
 その年の当番のものがいろいろ詫びいり、神官のとりなしで、小さい餅を二,三十添えてようやく批判が落着するのが例です。
 それから、御膳が出て神酒を祝ってすべての行事が終わります。

 えどる・・・難癖をつけると言う意味です。

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